2022年05月01日 聞法
「私たちが地域社会の中で生活するにおいて、家に神棚があったり神社のお祭りやクリスマスなど他宗派他宗教の行事や振舞いなどと無縁で生活したりすることはできません。そういう時、真宗門徒としてどのような心持ちでそのことに向かったらいいのでしょうか。」同朋会員の方からこんな質問をいただきました。
いろいろな寺院の総代さんにアンケートを取ったところ「古く慣習としてやってきたことを真宗の教えに沿わないからやらなくていい、と言われるのは少し寂しい気がする」というご意見がありました。
例えば、「四日仏」は四=(イコール)死を連想するから良くないと言われるが気にすることはない、とか「清めの塩」には死は穢れでないから清める必要はない、と真宗では言います。これら慣習として行われていることについては、大切に守っていかなければいけない部分と、起源をたどると言葉遊びであったり、当時の流行を取り入れていたりと、必ずしもとらわれる必要のない部分とがあることが分かります。
地域社会で生きていくということは私一人の問題ではなく、周りに合わせるということがどうしても必要で、例えばマスク一つとっても無碍(むげ)にはできませんし、ましてや他の宗教を軽んじる必要もありません。
そういう場面に出会ったときは、思考を止めてしまって右往左往するのではなくて「どこに大事なことがあるのか」をたしかめることが肝心なのではないでしょうか。
神社で神様にお祈りをしたとき、(ああ、私はこういうことを願っているのだなあ)と考える。そういう私だと自分に目を向けていく視点が大切だと仏教では教えられます。
不幸だと感じることがやってきたとき、そこからどうやって抜け出したらいいのか。自分の外側に原因を見出す在り方を外道(げどう)と言います。自分の外側に原因を見出す限り、そこから抜け出すことはできません。外道に対する言葉は内道(ないどう)。自分を見つめるという在り方です。出来事に対して不幸だと感じているのは私自身である、と気づいていく在り方。その在り方を仏教では説いているのです。
逃げても逃げても 苦しみから 逃げきれないのは あたりまえのことだよ
なにしろ 追いかけてくる苦しみって 自分自身なんだから
苦しみと向き合うのは 自分と向き合うことなんだ (小泉吉宏 『ブッタとシッタカブッタ』シリーズより)
やり直しのきかぬ人生であるが 見直すことはできる (金子大栄)
地域社会の中で関わりを大切にしながら、その中で自分自身と向きあう視点、人生を見直す視点を仏教に聞かせていただくということではないでしょうか。
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