2020年05月
A:ある時のこと、ご法事の会食でのことです。時間が進むにつれけっこう話が盛り上がり、酔いもまわって気分よくなっていました。「そろそろおいとましなければ」と思っていた矢先でした。
突然、「お尚さん、祟りはあるんですか」という質問が飛び出したのです。 一瞬「こりゃ、たいへんな質問が出たぞ」と思いましたが、じっくりお話している時間はもうありませんでしたので、「あると思う人にはあります。ないと思う人にはありません。ちなみに私にはありません」と答えました。
ある方などは、「あると思う人にはあって、ないと思う人にはない。なるほど、分かりやすい」と言って感心しておられましたが、当の質問者は煙にまかれたといった感じではなかったかと思います。
私たちの日常生活の中において家族に不幸が続いたりすると、「先祖の供養をしていないからではないか」などど言って先祖の祟りにされることがありますが、それは幸も不幸も霊界によって支配されているという日本古来の霊魂信仰が今も根強く残っているからです。
新しく死者となった人の霊は、一定時間(二十三回忌までとされる)を経て黄泉(よみ)の国へと行き祖霊となって子孫を見守ることになりますが、祖霊になるまでは不安定な祟りの可能性のある危険な霊とされています。ですからその間は祟らないように慰めたり鎮めたりしなければならず、慰霊鎮魂の先祖供養が行なわれます。
そして、三十三回忌を過ぎれば祟りの可能性がなくなりますので、供養は打ち切られます。だからきちんと年回忌法要をしていれば心配しないのでしょうが、大抵はどこかでぬいているのが普通ですから、「もしや祟りでは?」ということになるのでしょう。
でもよく考えてみてください。自分の死後、子孫が不幸になることを喜ぶ人があるでしょうか。子孫の繁栄を願いこそすれ、不幸になることを望む人はいないのではないかと思いますが。
お釈迦様は、すべての現象は無数の原因(因)や条件(縁)が相互に関係しあって成立しているとおっしゃっています。たとえば私たちが不幸とみる代表格の病気ですが、普通は「過労が原因で」とか言いますね。しかし、過労は縁でしかないのです。本当の因は、私が人間に生まれたということなのです。
人間であるかぎり病気にもなりますし、歳もとりますし、やがては死も迎えます。病気になってあたりまえの身に生まれているということが因なのです。病気になってあたりまえの身を生きている私が、過労とか、不養生とか、伝染とか、いろいろな縁によって病気になるのです。だからすべて私との関わりの中で生じてきます。決して私と無関係に、私の外部から降ってわいてくるようなものではありません。
そういうことが分かってきますと、不幸の責任を祟りということで先祖に転嫁してしまっていた自分に気付かされます。迷いが晴れます。死者の霊が迷って私たちに祟りを及ぼすと思っていましたが、本当は迷っていたのは私たちの方だったのです。
亡くなられた方は、生命の根源である浄土=阿弥陀仏の世界に還られて、迷っている私たちに、「目を覚ましなさい。そして、本当の自分を生きてください」と呼びかけてくださっていたのです。
祟りがあると思っている方は、祟りを恐れて慰霊鎮魂にあけくれ、自分を見失って生きることになります。それこそが祟りなのかもしれませんね。
(前住職 1999年7月3日)
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