法話・今月の言葉

Q&A お寺さん
ちょっと
いいスか?

2020年09月

Q:「信心」で病気は治りますか?

A:鬼は外、福は内

世間一般に信心という時は、たとえば「神信心」というように、人間が神や仏を信じて自分の思いをかなえてもらおうと祈願することを言います。

人知をもってはかることのできない能力をもち、人間に禍福をもたらすと考えられる存在(神や仏)に、自分や家族が幸せになり不幸にならないように祈り、いろいろとお願いするわけです。信心が手段でご利益が目的になっています。

何年か前に神社を回って絵馬にどんな願いごとが書いてあるか調べたことがあります。いろんな、種々様々な願いごとにまじって極めつきがありました。「ぜんぶ思い通りになれ!」です。

なんと厚かましいと思いましたが、よく考えてみると私たちは自分の願いを小出しに出していますが、本当はこの絵馬がいみじくも言っているように、全部自分の思い通りになってほしいのですね。「鬼は外、福は内」なのです。

私たちは自分に都合よくなるように願い、都合の悪いことからは逃げようとします。しかし、現実は自分の都合のいいようにばかりはいきません。むしろ逆だと言っていいでしょう。その思うようににいかない現実にぶつかって悩み苦しむことになります。

現に置かれている自分自身の有り様が受け入れられずに、神や仏にすがって何とかしてほしいともがきます。このように私たちは悩み苦しむ原因はじぶんんおそとにばかりあると思って、外へ外へとその解決を求めて身動きがとれなくなっています。

自分自身を生きる

そのように外へ解決を求めている私たちに、悩み苦しみのもとは他ならぬ私自身の内にあると、眼を内側に向けさせようとするハタラキが実は阿弥陀仏なのです。

自分勝手な願いしか起こせない私たちの愚かさに気付かせ、その自分の思いが破られたところにこそ本当に自分自身が生かされていく道がある、「自分自身を生きなさい」と呼びかけてくださっているのが念仏です。

ですから私たちは念仏によって阿弥陀仏に遇い、自分自身に遇うのです。これを念仏の信心と言います。そして、その信心をいただいた時、私たちはありのままの自分自身を認め、受け入れていくことができるようになるのです。信心は決して手段ではありません。

病気が無駄にならない

病気になりたくないと病気から逃げている間は、「なぜ自分だけがこんな病気に」と、病気を恨み愚痴をこぼし、病気の間は自分にとって無駄な時となってしまいます。

しかし、人間と生まれたということは、病気になり得る身に生まれたということです。ですから病気を素直に受け入れていく。すると健康な時は気付けなかった健康のありがたさが身にしみて感じとれるようになります。

病気の辛さや不安もわかります。いろんな方のお世話にもなるからその優しさありがたさも感じとれ、人の心をくみとれる人になっていけます。病気が無駄にならない。どんな人生にも意味があるんだと受け止めていけるようになります。

私たちは病気が治ることが助かることだと思って神や仏に祈りますが、病気が治ること、楽になることが助かることでは決してありません。病気のこの身を認めありのままに受け入れていけるようになること、苦難を逃げずに受けてその中で生き抜いていく力が生まれてくることが、本当は助かるということなのです。そして、そういう救いを得ることを真宗では「信心獲得」というのです。

(前住職 2005年7月28日)

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