法話・今月の言葉

Q&A お寺さん
ちょっと
いいスか?

2020年07月

Q:真宗では清めの塩を使わないそうですがなぜでしょうか?

A:通夜や葬儀に参列すると入口に清め塩が置いてあったり、香典返しに清め塩が入っていたり、それがあたりまえになっていいて、ないと落ち着かないのが普通かと思います。でも私たちは「なぜ清め塩なのか」と1ぺん考えてみる必要があるのではないかと思います。

死を穢れとみる

なぜ清め塩が使われるかと言いますと、死穢と言われるように死者は穢れているとみるからです。そして、死者の近くに行けばその穢れが我が身につくかもしれないので、それを清めようというわけです。塩は古来から物を清める力を持つと考えられてきたからです。

清めるということは、このように清めなければならない状況が前提としてあります。死は穢れである、と。だから、神棚に白い紙を貼ったりお仏壇の扉を閉めたりして、穢れが他に及ばないようにします。また、お棺を出す時に玄関から出さずに部屋から直接出したり、地方によっては故人の愛用していた茶碗などを割ったりするのも、死を穢れとするからです。

つまり、玄関出ない所から出される、愛用していた物がもうなくなっているということは、この家は帰って来る所ではないということなんです。「あなたの帰って来る家ではありません。穢れを持ちこまないでください」と言うわけです。

亡くなられた身近な方の死を嘆き悲しむ一方で、死の穢れを忌み嫌って「もう来ないでちょうだい」と塩をまいて追っ払っている。この矛盾に気づかないのです。わからないまましているとはいえ、もし私が送られる側だったら「そんな無常な」と思うようなことをしていることになるのが、この清め塩ではないでしょうか。

身の事実として受けとめる

真宗では、というよりも本当は仏教では、死を本来穢れとはみません。限りある命を生きているという道理を実感させていただく厳粛な事実として受けとめます。死を忌み嫌い逃げようとしている私たちに、到底逃げ切ることのできない、限りある命を生きているんだという身の事実を知らしめしてくださる大事な機会として捉えます。

亡き人は身をもって死を私たちの眼前に示され、「私はこうして命終わっていきますが、あなた方にも同様に命終わる日が必ず来るんですよ。そして、それがいつになるかわからない。だからボヤボヤしておれません。一日一日を大事に、どう生きたら自分らしい生き方になるか尋ねていってください」と願ってくださっているのです。

私たちはその願いを受けとめ、悲しみを乗り越えながらそれに応えた生き方を問い続けていく、そこに亡き人の死を無駄にしない本当の意味での供養も成り立つのだと思います。

如来の教えに出会う

死を忌み嫌い生だけを追い求めている時は、どう生きるかという問いは生まれてきません。いつまで生きられるかわからないとなった時に、生の長さじゃなくて中身が問題になってくるのだと思います。金子大栄先生は、「人生は長さじゃない、深さです、幅です」という言葉を残されていますが、深さや幅のある人生はどうすれば送れるか、そのこと亡き人を偲びつつ如来の教えに尋ねていく、それが真宗の、そして、本来は仏教の死の受け止め方だと思います。

だから、お仏壇(真宗ではお内仏)は閉じません。亡き人を通して私の生き方をご本尊阿弥陀如来に問い続けていく大事な場所だからです。

(前住職 2002年2月)

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